Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

いつも仕事で新宿に向かう時は急行や快速で向かうところを各停でのんびり読書をしながら移動した。

移動に持ち歩いているのは三木成夫氏の『内臓とこころ』

野口三千三氏との「はらわたを掴む」の件は、何度読み返しても思わずクスリと笑ってしまう。

はらわたを掴むといってもまさか実際にそれを掴むわけにはいかないから、そのはらわたから排泄されたものをムンズと・・・ということだ(笑)

ただ、以前はそれをユニークなエピソードとして読み流していた自分が、それを実際に行いかねないくらい(いや、しませんけど・・・多分)、「内臓の感受性がにぶいと、心のこもった絵も描けないし歌も歌えない」という言葉がひしひしと胸に、いや肚に沁みてくる。

何故そんなエピソードが語られたかはこの本の冒頭で紹介されているレジュメの中の言葉に要約されている。
(この本は斎藤公子氏が創設した「さくら・さくらんぼ保育園」にて行われた講演をもとに「みんなの保育大学」第6巻として刊行された)

「膀胱は直腸と共に、中身が詰まると収縮する。この感覚は、尿意・便意となって意識に上がるが、おしめの取れた幼児たちは、それを自分で覚えるまでに失敗を積み重ねてゆく。この中身の刺激による内臓筋の収縮は、内臓感覚の一方の柱をつくるが、これを素直に受けとめる感受性は、この時に養われる。

また、同じく三木氏の『海・呼吸・古代形象ー生命記憶と回想』の中では「内臓の感受性が鈍くては 世界は感知できない」とも表されているが、講演ということでより平易な言葉で語られた本書(内臓とこころ)から以下の件をご紹介させて戴こうと思う。

この「無明」の本来の言葉は私は師から教わりました。a-vedanaというのです。これはサンスクリット語です。aは否定、そして次のvedanaは、あの有名な「色・受・想・行・識」の第2番目の「受」にあたる。これは、私どものからだの内外の変化を、ありのままに”受”け取る機能、いうなればからだの智慧です。知識じゃなくて智慧。ちなみに知識のほうは、5番目の「識」がそうですね。原語ではvi-jnanaがこれにあたります。viは別jna=knowすなわち、知るです。これは大脳皮質の問題です。要するに、頭でわかること。これに対しvedanaは、からだで感じることです。
よく”腹の底”からわかる、といいますが、こういった時の土台をなしている機能です。だからこのvadanaをつきつめますと、まさしく、本日のテーマに行きつくことになりますね……。内臓感受そのものとなります。

私ども凡俗は、仏の教によりますと、けっしてこうはゆかない。空腹が「縁」となって、それこそ八百煩悩が、夏雲のように湧き上がってくるという。まったくもって、どうしようもないですね。もっとも”八百”などとややこしいことをいう必要はない。”四”つーあの「四煩悩」だけでもう充分ですね。「生老病死」「愛別離」「怨憎会」「求不得」ーよくもまあ、いやなことばかり並べたものですが、要するに、こういったいやなことが、たとえば”お腹がすいた”というそれだけの引き金でもって私どもの頭の中にムクムクと湧き起こってくるというのです。

情報が氾濫し、「識」から生じる恐れから様々な事象が生じている今の世の中、世界を感知するために必要なのは、その「身の内」に起こっている事に目を向ける事なのでないだろうか。

「落ち着く」とはアタマに上ってしまっている意識を、「肚の底で感じる」に下ろす事のように思える。

と、いう事でここ一月ほど仕事の中では、呼吸、骨盤腔内の繊細な感覚をレッスンのテーマにしている訳だ。

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