
途中を、途中のまま
2020/03/14
先日呼吸や骨盤腔内の感受性も目覚め始めてきた中学生の生徒さんが「骨盤底が上がると足底も上がる」という事を発見した。
「結果としてそうなった」という経験をしてからそれを認識するのと、先験的に知識を得て「その様にしよう」と意識したり、そのようになるだろうかと確かめようと行為するのでは、経験の趣が全く違うと私は思う。
ことの是非や優劣ではなく、私はなるべく前者の体験に誘いたいと思うので、筋への直球の意識ではなく、骨の動きを感じるということを通じて極力自分で発見していけるように水を向けているが、まだ幼児時代がそう遠くない過去である子どもたちは、比較的速やかにその体験を自ら創造していく。
そして何かそれまでと違うというその感触にひととき瞳を輝かせはするが、言語化して切り分ける前にただただ好奇心の赴くままに反芻する。それは、乳児が何かに心惹かれたように同じことを繰り返す姿に近しいと感じる。
それは途中を、途中のまま味わう姿とでも言おうか。
あるいはわからないものをわからないままに舐め回すかのような「把握」とは違う趣のように思う。
その「わからないものをわからないままに」という言葉から、今日は鷲田清一氏の言葉を取り上げてみたいと思う。
目的地よりもそこに行き着くまでの途中の方が大事、そこに、目的地にたどり着くよりももっと大事なものがあるということなのだろう。
道草、あるいは目的地のないぶらぶら歩き、それをフランス語ではランドネという。英語のランダムと同じ語源の言葉、予測ができないという意味からきた言葉だ。旅と旅行の違いもそこにあるとおもう。トンネルを掘り、橋を渡した、目的地にまで最短の距離で進む「最適」の道よりも、山沿い、川沿いにくねくねうねりながら、ジグザグ折れ曲がりながら進む気ままな道、その中で起こる予期しない出来事の中に、じぶんひとりではとても紡ぎだせないような別の人生の意味が浮かび上がるというわけなのだろう。
これはパッケージされた旅行、プログラムされた旅行、テーマパークへの旅行の対極にあるものだ。つまり、あらかじめ知っていることしか起こらない旅行の対極にあるものだ。…
観光、行楽、遠足、慰労…そんなあらかじめ意味づけのわかっている旅しかイメージできなくなっているようにおもう。知らないことに出会えなくなっているように、わからないことにわからないままにつきあえなくなっているようにおもう。
『想像のレッスン』鷲田清一 著 ちくま文庫 320ー321頁
今、私たちが尊重し、またもう少し見習わなければならないのは、そうした態度であるような気がする。
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