Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

暫くチェンマイにも行けそうもないが、目を閉じるとすぐそこにドイステープの稜線や麓の森が広がっているかのように空間や時間の連なりがばらけているような不思議な感覚になるのは、どこか今の毎日の非日常的な気配が作用しているのだろうか。

チェンマイといえば、前回渡航する前にタイ語の先生からの課題でタイの伝統的な家屋やサーンプラプーム(ศาลพระภูมิ)と呼ばれる土地の精霊を祀る祠について調べるために購入した『人間・遊び・自然』という民俗学系の本を、まだちゃんと読み終えていなかったことをふと思い出し、昨日改めて読み進めてみた。

全く違う意図で購入したのに、やはり本との出合いも縁だとつくづく思う。
このところ読んできた本たちと何か連なり合いながら多くのヒントを得られる感じがして、改めて著者の方のお名前を確認してまさに『未来のルーシー』の中で中沢氏が触れられていた岩田慶治氏の本であったことに今更のように気付いた。

なかなかに魅力的な本なのだが、特に遊びについての考察が綴られている第二章「未知の世界とたわむれる」は身体運動・舞踊にも関わってくる内容なので、これまた貪るように読んでしまった。

われわれの人生は場所的に、時間的に、また制度、施設のうえで分化しながら、それぞれに分担し、受け継ぎながら一人ひとりのニーズが充足されるしくみになっているのである。しかし、これまで述べてきたような民俗社会では、労働と遊びと祈りが一体化し、身体の動きのなかに収斂している。働くこと、労働することがそのまま遊びであり、遊びが、また、祈りの表現であった。さまざまな行為とその意味が身体運動のなかに未分化のまま、混然として、組みこまれていたのである。
臼をつく労働そのものが遊びであり、祈りであった。臼は臼のままで楽器であるということは、われわれが忘れ去ってしまった民俗社会におけるきわめて魅力的な現実なのであった。われわれは、われわれの生を活性化するために、この点をめぐって現代文明を反省する必要があるだろう。
道具は道具、手は手、感覚は感覚として、バラバラに外界に接している現代文明のなかの人間よりも、自然と人間との一体感のなかで全体作用している伝統社会の人びとのほうが、より生き生きとした日々を送っているといえないであろうか。少なくとも、かれらの生き方のうちに、われわれを魅惑し、われわれに反省を迫るものがあることは事実なのである。

『人間・遊び・自然 東南アジア世界の背景』岩田慶治 NHKブックス

いわゆる「レッスン」という時間以外にスタジオや時に屋外で自習会という場を設けているのも、ただ学んだことをさらう機会というだけでなく、むしろ経験や立場、個々の課題や関心も違う人々が混然と同じ時空間の中で動く中で「はみ出していくこと」、はみ出して重なり合うところに遊び、展開しあっていくような、予定調和ではない創造の場を設けたいと思っているからだが、その意図を予め提示しないのも「それが目的」になってしまうとまたその目的に縛られて違うことになってしまうように感じたから。

そして実際にそれを1年以上続けてきてやはり、個人であれグループであれ「レッスン」という受け身の枠の中だけでは生じ得ない作用が働きあってきているように感じる。

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