
想像の尻尾
2020/03/31
今こそ「尻尾」を育てる機会だよ。
若い生徒さんにそんな事を話す。
それは「想像の尻尾」のことだ。
適切な危機感というものも、その尻尾があって働くものだと思う。
わかりやすい本(情報)や、答えのある本(情報)ばかり読んでいても、その尻尾は育たない。
そして大人も、はやしたつもりの尻尾が凝り固まっていないか疑わなきゃ。(と、自戒を込めて)
カラダの知性も同じでしょ?
この本も
感じ、考える余白がたっぷりとある本だ。
つまり、作家によれば、「懶惰の美徳――奥床しさ」を身にもてないのは、ひとが尻尾をもたない生きものだからだ。尻尾がないから、ひとは退屈を怖れるのだ。みずから「想像の尻尾」を生やして、よほど尻を落ち着けてでないと、ひとは退屈をみずからたのしむことなど到底覚束ない存在なのである。けれども、「想像の尻尾」をふさふさと生やすといっても、そう簡単にはゆかない。というのも、ひとの「想像の尻尾」というのは知性という見えない尻尾で、知性というのはみずから退屈をたのしむ術だからだ。座布団を猫に取らるゝ日向哉 (谷崎潤一郎)
退屈とどうつきあうかで、ひとの人生の感じかたは、はっきり二つに分かれる。退屈を最悪の患いとして、猫の手も借りたい忙しい人生をねがう人と、退屈を最良の機会として、「想像の尻尾」を生やした人生をねがう人と。
猫の手か、猫の尻尾か、それが問題だ。ひとの人生の問題は、もしかしたら、ただそれだけにつきるのかもしれない。長田 弘『感受性の領分』岩波書店
「猫の尻尾」より
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