Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

後頭部から胸の後ろあたりにスクリーンを張って
そこで世界を感じなさい。
スポットをつけるような目の使い方をするな。

と、よく師は言った。

それは伸筋優位に使うというような事とは
全く違うものだとある舞台の時に感じた。

むしろ、意識は
自分より後ろ少し斜め上くらいの所にあって
「わたし」はその研ぎ澄まされた静寂の中から
踊っている自分の後ろ姿と
客席の広がりを眺めるかのような…
言わば微睡む自我の背後の観察者の
「居場所」にいる感覚だったのを
今でも鮮やかに覚えている。

踊るということの中で
その観察者のような居場所と
感覚によって生身の身体に呼び戻される事とを
行きつ戻りつしていたから
その時の時間は「流れる」というより
コマ送りのようにも
ところどころスローモーションのようにも
感じられたのだろうか。

面白いもので
そういう時は音の聴こえ方も
普段とは違って
音に乗って動くというより
音楽というひとかたまりの響きが内にあって
動く身体から放たれていくかのような
何とも表現し難い感覚だった。

ヌーソロジーはまだ出合ったばかりで
その「居場所の感触」とは
全然違うものなのかもしれないが
それでも、ヌース的な言葉は
その言葉にし得ないものに
ストンと響いてくる「何か」があるように感じる。

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この2冊を読書中。

物質の究極と人間の意識奥行きの子供たち わたしの半身はどこに? ヌーソロジーで読み解く映画の世界

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