アタラシイフツウ
2020/05/12
「ニューノーマル」という言葉があるが
「New」とか「新しい」という言葉にも
「ノーマル」とか「普通」という言葉にも注意が必要だ。
そもそも自分にとっての「ノーマル」とは何か。
それを問うこともなく
誰かが定義した「ノーマル」を選ぶことが
果たして自由なのだろうか。
「新しさ」の中で
何が切り落とされているのか。
その背景にはいかなる意図が働いているのだろうか。
道なきところから道を創り出していく余地は
そのヴィジョンにはあるのだろうか。
「これまで」と
一提案に過ぎない「新しさ」の
二択であるかのように
取り上げられてはいないだろうか。
メディアの役割は
人を盲目的にさせることではなく
目を開くために
多様な観点からの情報を
提供することではないのだろうか。
松岡正剛氏の千夜千冊 第1741夜
『免疫ネットワークの時代 複雑系で読む現代』
から、備忘メモ。
自粛は自縮ではない。それぞれが粛然としなければならない。たんに粛然とするのではない。「粛」は聿(いつ)と規(き)に従って、しかるべき文様や画文を描くことをいう。文様や画文とはヴィジョンのことだ。それを自発させるのが自粛だ。問題はその「粛」による文様や画文をどういうものにするかである。グロバールスンダードな画文であるはずがない。わかりやすければいいというものでもない。
粛然は多様を生むべきだ。できればコンティンジェントな別様の多様性を企むべきだ。
こういうときは、あえて根源的なことをいうのなら、いつもの(フツーの)リスクヘッジをするのではなく、もともと生命系がもっている「ノーマルとアブノーマルの混在の持続」にもとづくことが、レギュラリティ(通常性)とアノマリー(異質性)を混交することが、おそらくは本来のニューノーマルなのである。
さて、「複雑系の本棚」から
また数冊再読する週となりそうだ。
昨日の朝の放射状の雲。
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