Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

90歳を超えた高齢者が身近に複数いると「語られる身体」を聴くということが日常的にある。

仕事においてもその要素はあるが、身近な存在であるほど自分が作り上げたその人像の枠組みの中で捉えがちであったり、

身体や動きに関わることに従事しているゆえの見方による偏りもやはり多いものだろうから

「私は今、本当に聴いているだろうか?」と自身に問い直すような事もあれば、

パートナーと義父母のやり取りを少し客観的な立場から眺めつつ

語る事、聴くことについて考えるような事も両親たちの老いが進むにつれて増えてきている。

 

親たちの老いも、孫の発達も身近にある中で

「聴く」とはどういうことか

思考にも、コミニュケーションにも介在する言葉とは?という問いは続くが

今日は最近読んで面白かった2冊の本をメモしておこうと思う。

 

いずれも、

その道の専門家とは違った専門性を持った方が、聴くことや言葉について綴られた本のあとがきからだが

特に『介護民俗学』の中で綴られている様々なエピソードには、ハッとさせられることが多く、

今、身近にいる双方の両親たちとの対話の時間に少し奥行きが広がったような気もするし

既に他界した祖父母の記憶を妙に鮮やかに思い出したりと

今年読んだ本の中でももっとも印象深い1冊となりそうだ。

 

 

だが、一方で私は、「介護予防」という言葉に少なからぬ違和感を覚えている。

介護予防という言葉には、介護は予防されるべきもの、という考え方が露骨に反映されている。

つまり、要介護状態になることは否定的にとらえられているのである。もちろん、元気に長生きできたらそれに越したことはないかもしれない。しかし言うまでもなく、誰しも年をとる。であれば、誰もが要介護状態になりうるのである。介護される側になるというのは決して特殊で特別なことではなく、人間にとっては誰しもが迎える普遍的なことであり、自分もそうなるのだ。そういった想像力が、介護を問題化するのではなく、介護を引き受けていく社会へと日本社会を成熟させていくための必要条件だと思えるのだ。

そこで私は、「介護準備」という言葉を使ってみたい。この言葉には、要介護状態になるのを予防するのではなく、要介護状態になる前に、介護されるための物理的・精神的準備をしておくという意味を込めている。

六車由実『驚きの介護民俗学』医学書院

赤ちゃんは心のなかに、独自の認識世界を構築している。文化人類学者は、ヒトの物の見方に対する文化の影響を調査するために、遠く未開の地に出かけていくけれども、日常のごく身近にもまったく違う生活を持ったヒトが、多く生活しているのだ。私たちは、たとえ家に子どもがいなくとも、一歩外に出ると赤ちゃんに出くわす。電車に乗り合わせたり、レストランで居合わせたりしたときに、たまたまぐずっていると、不愉快な気分になることもある。しかし赤ちゃんにとっては、理不尽にむずかっているわけではない。赤ちゃんには赤ちゃんの主張がある。おとなの認識している世界と、くい違っているだけにすぎない。おとなは過去にはみんな一度は赤ちゃんであったけれども、すべて忘れてしまった。昔われわれは何を見て、何を感じていたのだろうか、あるいは、あの赤ちゃんにどう世界は映っているのだろうかと、まなざしを変えることに、本書がいささかなりとも役立つことを私は願っている。

正高信男『0歳児がことばを獲得するとき行動学からのアプローチ』中公新書

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【眺め】

この季節の空は、こんなに低かっただろうか。

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