Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

この週末は長田弘さんの『それにしても』を読み返し
20年近く前の詩人の言葉に触れた。

今がまた「境目」であるのなら
その主役は「自然」なのかもしれない。

1960年代にはいって、たとえばチャーチルやドゴールを最後に、いわゆる「大」のつく政治家がいなくなったあたりから、時代の主人公が「人」でなくなったのでしょう。やがて「偉人伝」は消えてゆき、「英雄伝」はノスタルジアになってゆきます。「人」が主人公でなくなっていった六〇年代を境に、時代の主人公のように登場したのは「物」であり、時代の表情をはっきりと記憶にのこすものとなったなったのが、「物」でした。

(…)

やってきたのは、自分の声を「人」が失くすことになった時代です。六〇年代の翌朝の七一年に、一人の若い舞台演出家が書きつけています。

「地声を失ってしまっている役者がいる。それも主役をつとめてきたような役者に多い。「声を鍛え、あれこれと表現テクニックを身につけている間に、だんだん声が自分を離れてしまって、十数年もたつと、声だけが独立してしまう。そうなるともともとの声はどんなだったか、もう本人にもわからない」。セリフは上手でも、「自分自身と声との間につながりがないから」、心の底から感動させられるということがなくなっている。

(…)

それまで時代の主人公をつとめてきた「人」が、自分の声を失って、「物」に主役の座を奪われてから、ひとを魅了するものとなったのは、「素顔」(リアリティ)ではありません。「人」から「物」へ主役が入れ替わって、上がったのは「演技」(パフォーマンス)の時代の舞台の幕です。

それにしても「人」の見えない時代になりました。

長田 弘『幼年の色、人生の色』(初出2001年の湘南文學第14号) みすず書房

未知なるものを
アタマで考えても右往左往するだけだが
外にあるものを恐れる前に
それらを引き寄せ、拡大させているかもしれない
自分自身という土壌を今一度省み
想いの質と方向性に気付くことを
促されているように感じるこの頃。

そういう時の感じるはきっと
アタマでもムネでもないところで捉えている。

04a6d00ffd2d4b4d9b32b1d205bec7e6

この頃よく眺めているもう1冊。

Photicular™という技術を用いた仕掛け絵本。

邦訳版もあるのだが、英語版を古書で買い求めた。

コメント

この記事へのコメントは終了しました。