
春麗
2020/03/23
週末までずっと仕事だったが、麗らかなお天気と春の花たちに誘われて夕暮れ時のウォーキング。
私の好んで歩くコースは住宅街のちょっと奥まった地域なので、普段でもあまり人とすれ違うことも無いが、昨日もとても静かで鳥たちの声や樹々のざわめきが普段以上によく聴こえてくる。
ヒトの活動する音が少なくなると、自然の聴こえ方も変わるものだなと感じた。
80段程度の階段のある道があり、一段飛ばしで一気に登ると軽く汗ばむくらいになった身体に、少しだけひんやりし始めた風が心地よかった。
【読書】
『ウィルスの意味論』を読了し、次に読んでいるのは今西錦司氏の著書。
秋の花ではあるが、「曼珠沙華」というタイトルのエッセイから
今ちょうど春の彼岸の時期でもあり印象に残った部分。
ところで考えてみると、ヒガンバナという植物は、花が咲いても実はならない。繁殖はもっぱら地下茎によっているというのである。つまり花は咲いても、昆虫によって受粉作用を助けてもらう必要がないのである。すると、ヒガンバナはいったいなんのために蜜を用意して、アゲハチョウたちの訪れを誘っているのだろうか。あるいはなんの効用があって、ヒガンバナはその花蜜を貯えるようになったのだろうか、とダーヴィン流の進化論者なら首をひねるかもしれない。そしておそらく、ヒガンバナもかつては昆虫による受粉作用をとおして果実をみのらせ、それによって繁殖していたときがあったにちがいない。ヒガンバナの花蜜はその頃の名残を現わしたものであろう、というような推測をたてて、自己満足をはかったかもしれない。
しかしこれは、なんという了簡のせまい自然観であるだろうか。ということは、こういう自然観のもとに眺められた動物や植物は、みなそれぞれの利益のために汲々としていて、一緒に同じ土地でくらし、一緒になって自然というものをつくっている、他の種類の動物や植物のことを、一切無視して顧みないものである、という前提に立っているから、了簡のせまい自然観だ、といったのである。自然はもっとのびのびとしていて余裕に満ち、その余裕をもって他の種類の生物を、助けていると見られないものだろうか。ヒガンバナの花蜜もその余裕の一つであって、自分たちのためには直接の役に立たなくても、それがアゲハチョウの好きな食物として役立っていたら、それでヒガンバナの花蜜の存在意義を認めたことにならないだろうか。
自然に生活している生物は、つねに余裕を持った生活をしている。そしてその余裕を惜し気もなく利用したいものに利用さしている。われわれはそれをとかく無駄であるとか、浪費であるとかいうように解しがちであるけれども、自然はそんな我利我利亡者の寄り集まりではない。もしそんな我利我利亡者ばかりの寄り集まりだったら、このような美しい自然は、とうてい形成されなかったであろう。ヒガンバナの花蜜は、その持ち主のためには何の役にも立たなくても、その花を訪ねてきたチョウのために役に立っておればそれえよいのだ、といっておいた。すると花蜜だけでなくて、ヒガンバナのあの赤い、美しい花も、自分のために役立つものでなくて、チョウを誘うのに役立つだけのものであるかもしれない。しかし、こういうことができるというのは、生活が保証され、生活に余裕があるからできるのであろう。そうおもってもう一度自然を見直したならば、至るところにこのような自然の過剰エネルギーが、自然の芸術ともいいうるものに姿を借りて、発露しているのでなかろうか。
『生物レベルでの思考』今西錦司 STANDARD BOOKS
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