Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

『ガウディの伝言』を読み進めていくにつれ、いま、この本に出会えてよかったと思う。
ガウディの志を受け継ぎ、ザクラダ・ファミリアの建築に携わっている方々の、オートポエティックに、あるいはレンマ的にゆっくりと時間をかけてより良いものをつくって行こうとする仕事の進め方には共感を覚えることが多い。それはどこか建築というより生命のように、命あるものを育んで行こうとする姿勢のようにも思える。

そう感じながら観たせいだろうか、昨日ご紹介させていただいた動画も、私にはまるで植物が育っていく姿のように思えた。

 私にとって、彫刻をつくっているときの理想は、「石の中に入って彫っている」という状態です。彫刻家でなくても、何かに没頭したことがある人は、同じような経験があるのではないでしょうか。夢中で仕事をしているうちに、時間が経つのを忘れ、周囲の音も聞こえなくなり、石を打っている自分の肉体の感覚さえなくなってくる。石と時空を浮遊しているかのような自分。こういう状態を指して、仏教の世界では「空」と言うのかも知れません。彫刻をつくるときには、当然、いろいろな計算や配慮をして彫っていかなければならないものですが、そういう思考の働きも意識する必要がなくなり、それでいて、次の作業がどんどん頭に浮かんでくる。体が勝手に動いている。まるで石に導かれているような感覚です。  そして、ふと我に返ったときに、「ああ、自分は今まで石の中にいたんだな」と感じる。そういう不思議な気分を味わうことが、これまでに何度かありました。

この辺りの感覚は、まさに認知運動療法の宮本氏が綴っていらした「プラズマーレ」する感覚の世界でもあると思うし、ダンスの中でそうした感覚を体験している人なら共感できる面なのではないだろうか。
我を忘れるような陶酔とも違う、言葉にはし難い感覚だが。

自然の中にある秩序を読み取っていくガウディの手法は、科学者的というより、職人的なものだったと私は思います。自然を言語で捉え、理論や公式を打ち立てていこうとするのが科学者の精神であるとするなら、自然を直観的に捉え、自分の手を信じて、とりあえずものをつくってみようとするのが職人の精神です。その中で、多くの失敗から学んでいく。

また、以下の羽のない天使についての一節も心に残る。
一神教、八百万の神、宇宙や自然と、「大いなるもの」を何に感じていくかの違いはあっても、信仰心というものの機能は、こうした人間の性質に自覚的であることを促すことにあるのではないだろうか。

このように、ガウディが考えた彫刻の多くは、見る人に考えさせるものです。結論を押しつけるのではなく、どちらにも転び得る瞬間を表現することで、見る人の心の中にいる天使と悪魔を招喚させる。そうすることで、ガウディはその存在に自ら気づかせようとしているのではないかと、私はロザリオの間を修復しながら感じました。
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このロザリオの間に限らず、ガウディがデザインした天使には基本的に羽がありません。これは、人間の心の中にいる天使が、ひょっとしたら悪魔に化けるかも知れないということを暗示しているのではないかと思います。正義感や優しさも、それを信じきったときに堕することがある。そういう人間の性質をガウディは表現したかったのかも知れません。
科学にしても思想にしても、人間はある疑問の答えを知ると、また次の疑問が湧いてきます。これが最高と思っていたものがあっさり覆される。人間関係でも、調和がもたらされたと思った瞬間にもう次の争いの種が生じているということがよくあると思います。人間は常に完全には満たされないものとしてある。それでも謙虚に、豊かな実りを目指し、知恵を養っていく。時間を超え、空間を超え、多くの人が言の葉を交わしていく。それが文化であり、宗教であり、科学であり、人間にできる大切なことではないでしょうか。ガウディはそういう知恵を、サグラダ・ファミリアを通じて、多くの人の心に実らせたかったのではないかと思います。
私はそんなことを考えながら、石の葉を彫り続けました。

『ガウディの伝言』外尾悦郎 光文社新書

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