自分腔を立てていくために
2020/05/09
夜中の地震に始まり、激しい雷雨でひっそりと幕をおろしたGW最終日。
何とも揺さぶりの多い1日だったが、身体にしろ思考にしろ、自分の空間を整えていくための智慧に学ぶことと日々の実践とに没頭していた。
年々、時間が加速していくような感触を覚えてきたが、それがある意味停止したような今は、これまでと違うパースペクティブを構築していくために与えられた隙間であるように感じている
仕事でオンラインレッスンという選択肢を選ばなかったのも、ITに依存してまで「同じようなこと」を続けようとすることで、ハイパーパノプティコンな流れに呑み込まれてしまうきっかけを自ら手繰り寄せてもしまいそうなことに違和感を覚えたのもあるし、元に戻ることを考えるより、この事態の先をまずは自分ごととして考え、大地に足をつけ自分腔を立てていくために『レンマ学』『場の思想』を読み続けているが、この連休からは半田広宣氏のヌーソロジー関係の書籍も読み始めた。
わかりやすいこと、すぐわかるようなことに飛びついてしまったら、きっと大事なものを見落としたり、無くしてしまう。わからなさという居心地の悪さから逃げ出さずに自ら考え、稽えることを通じなければ見出せないこと、拓けていけない道筋がある。
それは身体や動きを学ぶ中で感じてきたことでもあるが、全く同じことを現状の中にも感じている。
「わかる」「わかりたい」を一旦脇に置いて
動きが生起するのを待つということ。
隙間を開くということ。
私にはそのようにしか表現できないことが
レンマ学やヌーソロジーに触れていると、少しずつ少しずつ整理されてくる気がしている。
例えば「目が物を見ている=視覚」という表現などがその典型。そのような思考枠では物は実際には見えない。目以前に物の見えがある。そう考えないといけない。そこにいるのが主体$。目を出現させているのはS1(他者の眼差し)。目はS^2。それによって、$(主体)はa(対象への志向性)の下に隠される。 pic.twitter.com/YYIWqrocN7
— 半田広宣 (@kohsen) May 5, 2020
目を向け心を向ける時間がたっぷりとあったおかげだろうか、今シーズンの薔薇はどれも大きく美しく咲いた。
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