
幸い
2020/09/25
幸いなことに懸念していた台風の影響も無く
無事、今月の出張講座も終わった。
幼子のような原初の動きに立ち戻って
新たに経験するという道のりに於いては
わからなさに囚われない
ある種の無邪気さのようなものが要求される。
その中にあって
問いを柔らかく開いておくことを
持続できる方々との時間は
旋律のように流れ続けてきたというよりは
螺旋形に層を成してきた和音のごとく感じる。
そのような場を授かっている幸いを
いつもありがたく感じる。
無邪気なまま物にかかわることは難しい。無邪気なまま問いを発することは、なお誰にとっても難しい。
……
こんな単純なことを不思議に思うことは容易ではない。不思議さとは、柔らかい問いのことであり、また問いを開いたままにしておくことである。つまり「自分にはわからない」、「そんなことは自分には関係がない」という、裏返された「自己正当化」を可能な限り先送りすることである。注意を向けてはいるが、特定の視点から焦点化するような問いのたて方はせず、問いそのものへとみずからを開いてしまう。それは自分自身を、世界内の疑問符にするようなものである。これは少年の気質である。河本英夫『損傷したシステムはいかに創発・再生するか―オートポイエーシスの第五領域』
講座を終えて、少し先生とお話をする中で
反転の感覚は
芸術の世界に生きる人は
何かしらの形で体験してきているような
既視感のある眺めでもあるのかもしれないと感じた。
私の師事したある師は
あえて稽古の際に鏡を使わせなかったが
昨日、鏡についての話題からも
先生の鏡との関わり方は多分
一般的な動きをチェックするためのものというより
Noos的な方向性と奥行きを
持っているのではないかという印象を覚え
そう考えると創作なさった舞台に感じる構成美が
その眼差しに重なってくるようにも思えた。
何にしても、そのような対話ができることもまた
幸いなことだと思う。
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