Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

幸いなことに懸念していた台風の影響も無く

無事、今月の出張講座も終わった。

 

幼子のような原初の動きに立ち戻って

新たに経験するという道のりに於いては

わからなさに囚われない

ある種の無邪気さのようなものが要求される。

 

その中にあって

問いを柔らかく開いておくことを

持続できる方々との時間は

旋律のように流れ続けてきたというよりは

螺旋形に層を成してきた和音のごとく感じる。

 

そのような場を授かっている幸いを

いつもありがたく感じる。


無邪気なまま物にかかわることは難しい。無邪気なまま問いを発することは、なお誰にとっても難しい。
……
こんな単純なことを不思議に思うことは容易ではない。不思議さとは、柔らかい問いのことであり、また問いを開いたままにしておくことである。つまり「自分にはわからない」、「そんなことは自分には関係がない」という、裏返された「自己正当化」を可能な限り先送りすることである。注意を向けてはいるが、特定の視点から焦点化するような問いのたて方はせず、問いそのものへとみずからを開いてしまう。それは自分自身を、世界内の疑問符にするようなものである。これは少年の気質である。

河本英夫『損傷したシステムはいかに創発・再生するか―オートポイエーシスの第五領域』


講座を終えて、少し先生とお話をする中で

反転の感覚は

芸術の世界に生きる人は

何かしらの形で体験してきているような

既視感のある眺めでもあるのかもしれないと感じた。

 

私の師事したある師は

あえて稽古の際に鏡を使わせなかったが

昨日、鏡についての話題からも

先生の鏡との関わり方は多分

一般的な動きをチェックするためのものというより

Noos的な方向性と奥行きを

持っているのではないかという印象を覚え

そう考えると創作なさった舞台に感じる構成美が

その眼差しに重なってくるようにも思えた。

 

何にしても、そのような対話ができることもまた

幸いなことだと思う。

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