
主観と客観のズレ
2021/01/31
【出張講座】
今月の出張講座でも、
動作における主観と客観のズレが
明らかになるようなシーンがあった。
下肢の荷重ラインを整えて立つということですら
理解していることと、していることの間には
思っている以上に隔たりがあるものだ。
こういうことを繰り返していると
わかるということが
ある通過点での
ある角度からの眺めでしかないことも実感され
時に愕然としたりもするかもしれないが
そのズレの中に
まだ伸びしろがあるということではないだろうか。
朝陽を浴び、オレンジ色に染まる桜の梢。
枝先の芽は少しずつ少しずつその膨らみを増しつつある。
【読書】 野口晴哉『偶感集』再読
何も彼も知り尽すということは、何も彼も判らないことが、本当に判ったことをいうのだ。
何も彼も判るつもりのうちは、判るということは無い。
知り得ない人間が、知り得ない世の中を、知り得ないままに歩んでいる。
手探りしている人は、知り得ないことを知っていない人だ。知り得ないことを知った人は、大股で歩んでいる。
闇の中で光を求めているのは、知り得ないことを頭で判った人だ。知り得ないことを本当に納得した人は、光を求めない、又頼らない。その足の赴くままに、大股で闊歩している。彼はその裡なる心で歩いているのだ。
―野口晴哉『偶感集』 雨と嵐 より―
この記事へのコメントは終了しました。
コメント