
スキマ
2021/05/25
我々が既知のものから未知のものへとすすむとき、いつでも我々は理解したいと望むであろうが、しかし同時に「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない。
長田弘『感受性の領分』(岩波書店)の中の
「ハイゼンベルク」というエッセイの一節。
進もうとする手前の理解に縛られない
進むという経験を
私は面白いと思う。
手前で思考し推測した理解と
体験ののちに訪れる理解は
部分は一致し、確かにその要素を持って
説明できたとしても
やはり同じではないから。
部分と部分の間にあるものを
身体で聴くための隙間を開いて動く。
意識と無意識の境目から
ふと立ち上ってくるものに
出合う面白さを感じる頻度が
加速しているような気がする昨今。
散歩道の眺め
日々変わる紫陽花の表情
この記事へのコメントは終了しました。
コメント