
一脚の椅子
2021/08/24
スタジオに向かう途中
店先に置かれた椅子に目がとまった。
カッシーナだろうか。
その一脚の椅子があることで
「場」が生まれる。
店主の場なのか
迎える誰かの場なのかはわからないが
椅子というのは
今、ここにはいない
そこに座る誰かを想起させるようなところがあり
そこに置いた人の想いを
あれこれと想像しもするし
愛着のある椅子を持っていた詩人のエッセイが
その眺めから思い出され
一脚の椅子が創り出した「場」には
不在であるがゆえに
時が消え、記憶が重なる奥行きが生まれ
様々な人を感じさせる何かがあった。
さりげなくつたえて、おもわずドキリとさせる。いい椅子とは、そのひとにとってかけがえのない時間が、そこにある椅子なのだ。ひとがそこで、一個のじぶんというものを、生き生きとかんじられるような椅子がいい。簡素で、飾りなく、単純なうつくしさをもち、座ってしっくりと自然な感覚がつたわってくる。そんな椅子がいい。
椅子をみれば、そのひととなりがわかる。椅子はそのうえに、そのひとの一個の人生を載せているからだ。世界で一番うつくしい木の椅子をつくった一人といわれた北米の木匠ジョージ・ナカシマはいった。もしも椅子の目的が、ひとに印象づけたり、階級を誇示することだけにあるのだったら、そのとき椅子ははでばでしいものになり、彫りきざまれて死んでしまう、と。ナカシマによれば、椅子というのは、なによりもまず個性を生きるのだ。
子孫のために美田を買わず。だが、愛着する椅子を一つのこせたら、きっといい人生だ。
長田弘『感受性の領分』岩波書店
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