Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

ちょっと前になるが

中学生の生徒さんと会話していて

踊っている時より

その前後にセンターに向かって歩くような時の方が

落ち着かない居心地だというようなことを話してくれた。

 

うん、そうだよね

板付で音を待つわずかな時間とかも

とんでもなく長く感じたりね(笑)

 

でも、そういう時って

観客を意識しているようでいても

実はただ、自分がどう見られるかとか

良く見せたいってことに頭がいっぱいで

全然他者を感じられてないんじゃないかな。

そういうのって見えるんだよ。

 

という話もしつつ

言葉で表しきれるものでもないので

多分実演して違いを感じてもらったほうが早いかと

歩いて見せた。

 

「あ!」

 

私ごときの稚拙な動きでも

彼女の感性は

意識の在り方の違いを捉えたようだ。

 

鏡像を見るように

他者化した自分を探っている時

音や踊りのない間というのはなおのこと

本人も、観る側も

居心地が悪いものなのではないだろうか。

 

 

観客を感じる

アンサンブルやパ・ド・ドゥで他者を感じる

そういう時の「感じる」は

私は聴くという感覚に

近いような気がしていて

互いの気配を聴く

動きを聴くというような

まさにそこに生まれようとしている

和音の中の一音に

自分の意識が澄み渡るように

調和が成立している時

場が生まれるように思う。

 

 

もちろん、それは私の感覚であって

彼女にフィットするとは限らないから

それを言葉で説明するようなことはしなかったし

何かが違うというその時覚えた感触を

ヒントの一つとして

記憶の片隅に置いてくれれば十分だと思うが

自分の居心地としても

少しでも体験できればと思ったので

いつものように鏡を見て立つという居心地を味わってもらった後に

そのまま目を閉じた時

自分の居心地はどう変わるかを感じてみてもらった。

 

彼女は

横方向や背中方向

つまり自分の奥行きの方向に

意識の広がりを感じると言った。

  

再び、目を開ける時

目を閉じていた時に感じていた空間を

すこーし感じながら

その時の居心地を味わってみてごらんと促してみた。

 

 

そう、最初とは何かが違うね。

   

でも、

今すぐそれに言葉を与えることも

答える必要もないし

もしかしたらこの先、それが生きる時が来たら

自然と呼び覚まされることもあるかもしれないし

その時自分の言葉が生まれてくるのではないかな。

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