知覚
2021/10/26
ある生徒さんが
私たちのダンスは床と仲良くなることが必要だし
そういうトレーニングを色々重ねるわけだけれど
ナチュラリゼーションを続けてきて変わったのは
「仲良く動けるように操作しよう」という関係性ではなく
自分の意識が瞬間瞬間に捉えている以外のところでも
身体の様々なところが自然と床と対話しているみたいな
関係性になったことかなあ。
それは多分、感覚を丁寧にトレースしていく時間と
瞑想するみたいに這い続けた時間や
自然の中で土の感触を感じながら動いた時間の中で
少しずつ育ってきたような気がする。
というような話をしてくれた。
そう、知覚することは
自分が気付いていなかった働きに出合って
その微かな感触を温めたり
不要なものなら手放していきながら
新たな選択肢の訪れを誘う上でも欠かせないことだけれど
知覚しているとき、同時に
無視されている豊饒な世界があるということに
自覚的であることもまた必要なことなのだと思う。
「呼吸するように床や重力と関わり、空間に美を描くダンサーになりたい。」
そんな今の彼女の感性に
何か響くものがあるかもしれないと
1冊の本を贈った。
その一節から。
だからこそ、僕らの知覚は、それらの微細な運動や変化を無視すること、微妙な違いを平準化し、平均化することを選んだのだ。微妙に異なる相貌(そうぼう)をもち、微小な運動や流動をかかえた対象の正確な追跡をなかば諦めて、僕らの知覚はだいたいの輪郭、だいたいの感じ、だいたいの様子をまとめあげることで満足する。延命や、円滑な行動のためには十分な分水嶺、それが知覚の分解能の分水嶺になる。言い換えるなら、この複雑怪奇な世界のなかで行われる僕らの知覚とは、なによりも実践的性格に基づく延命の手段、より省略的でエネルギーロスの少ない抜粋と素描を骨格とする、限定的な対処法なのだ。
知覚とは、なによりも対象の固定であり、対象の省略的で概略的な把握、対象の形骸化を意味している。知覚とは、本来そうであるはずの対象の豊かさを削減する行為だ。僕らが物を見、なにかの音を聞き、匂いを嗅ぎ、味わい、なにかの表面に手を触れるとき、僕らはたえずその種の省略法を実践している。その単純化のおかげで、僕らは日常的な世界をなかば機械的に生きていくことができる。
知覚とは、〈客観的実在〉としての物そのものに、人間の感覚器官が働きかけ、対象に人間の側からなにかを足すことなのではない。それどころか、知覚とは、本来ははるかに複雑で流動的な物の総体から、非常に多くのものを抜き去ること、引き算すること、無視することである。
金森 修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』
(シリーズ・哲学のエッセンス/NHK出版)
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