
裸眼の行
2023/10/07
『文化のなかの野性 芸術人類学講』を読み始めたものの
あるページに釘付けになり
そこを幾度も味わいながら読んでしまうので
全く先に進めない。
それは「裸眼の行」について語られたページ。
さて、「行」というとそういった向こうの世界のものと思われると困りますので、私が日頃おこなっていた裸眼の行についてもお話しておきましょう。人間は、物を見ているようでいてなかなか本当には見ていないものです。つい言葉で考えたり、先入観念やイメージが働いてしまうからです。 裸眼の行と私が言うのは、たとえば目を開いた状態で何も見ない、どこにも焦点を合わせないのです。
ピントをぼかすのではありません。
これを日々続けていると次第に焦点がひろがってきて写真のように世界が目に飛び込んでくるようになります。しかし人の目というのは常に一点一点を見ようとする性質がありますので、これは非常に苦しい状態です。せいぜい十秒持続すれば成功と見なしてよいと私は勝手に考えています。
中島 智「文化のなかの野性 芸術人類学講義」現代思潮新社 15頁
遥か彼方まで見渡せる眺めのある場所
それはサロンで使っていた小さなマンションの一室の窓辺であったり
海の見えるスタジオだったりしたが
そこでプリエや単調な動きを繰り返していると
最初はどうしても意識は身体の隅々をスキャンする様に
体内や床やバーとの接点を巡りながら忙しなく動き回ってしまったり
目に映る何かに焦点を定めてしまう。
ただ、動き続けるうちに
次第に、そしてやっと饒舌な意識が鎮まり
空間と身体と感覚や動きとの区切れが薄らいで
「ただ在る」ようになった頃
フッと飛び込んでくる様な眺めがある。
以下の一節が
私には言葉にし得なかったことを
掬い上げてくれた様に感じたから。
大切なのは、この次です。この非常に苦しい状態から耐えられなくなった目は次の瞬間、突如として何かに焦点を定めるわけですが、その時に見たものはそれがつね日頃見慣れているはずのものであっても、初めて目にしたかのようなリアリティをもって迫ってくるものです。それはまるで脳神経を直接に物自体に繋いだかのような生々しいリアルであり、観念によって曇らされていない裸眼の情報なのです。
中島 智「文化のなかの野性 芸術人類学講義」現代思潮新社 15頁
そして、その感覚に出会う度に
どこかお腹の底から湧き上がる様な懐かしさをも覚えるのは
そんなふうに外界と呼応していた
極々幼ないの頃の記憶が
身体のどこかには刻まれているからかもしれないと思う。
そして今も
暁や夕暮れの空を眺める内に訪れる
一期一会の雲とお腹の底から共振するかの様な
或いは、中島氏の言葉を借りれば
「まるで脳神経を直接に物自体に繋いだかのような」
瞬間が
私にとっての至福の時。
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