Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

視知覚と原始反射は

密接に関わり合いながら

発達の過程を支えている。

 

どこかで滞るとき

伸び過ぎた枝葉を刈り取り

饒舌な言葉(或いは思考)を鎮め

より根っこに近い過程を

歩み直してみよう。

 

もう少しで届きそう

そんな時ほど

枝葉を切り戻し

土と根を整える。

 

そうして伸びてくる新芽は

それまでよりずっと

勢いと力があるもの。

 

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脳死の失うもの

さきに、体壁は内臓を目標まで持ち運ぶ、一種の「駆動系」であると述べた。そこでは、まず、目玉に当る「感覚系」と、手足に当る「運動系」が、双璧の器官として造られ、やがて、この両者の仲を取り持つものとして「神経系」が姿を現わす。 「脳」は、この神経系の中枢として、前二者を天秤の両腕とすれば、その、あたかも支点の位置に形成される。

中国の古い辞書 「説文解字」の中に、「感ハ動ナリ」がある。「感覚」なき処に「運動」なく、逆に「運動」なき処に「感覚」なし、をいったものであろう。ここでは、だから感覚を「原因」、そして運動を「結果」とする、一般教科書的な見方は、額面通り〝因果〟なものとして問題なく斥けられ、両者は、あくまでも「同時進行」の営みとして観察される。あのボールの縫目が止って見えるのは、同じ速さで眼球が動いた時に限られる。これを顔で追うと、迷路反射が起きて目玉が逆に動き、バットは空を切る。天井サーブで顔を上げた時も、敵に囲まれて顔を廻した時も、みな同様だ。

舐める、撫でる、眺める、といい、 また discover ,entdecken, découvrir といい、すべて「感ハ動ナリ」を地でいった言葉だ。 年寄が孫の相手でクタクタになるのは、内部運動の年齢差に由るものだし、相手方の柔軟な思考について行けないのは、筋緊張の個人差に由るところが多い。筋肉が硬直した時、感覚もまた硬直する。〝ナチの行進〟が、すべてを物語るのではないか...... 感覚と運動との、こうした同時進行的な関係は、一般に「双極的」な関係と呼ばれる。

脳とは、体壁に見られる、この双極の営みを、両者の仲に立って〝統合する〟ものであろう。動物達は、この働きによって、すでに述べた「食と性」の目標に向うのであるが、私達人間は、この時、つねに〝的〟を絞り、中心目指して一直線に進もうとする。それは〝目的〟を持ち、「理解-意志」の双極に分れる、人間独自の行為である。直線といい、的の中心といい、自然には存在しない、人間の観念の所産といえるものであろう。

最短距離を最短時間で、という人間の欲望は、こうして彼等を、際限ない「時空の短縮」に向って駆り立てるが、その結果、一方では、眼を瞑るような文明を持った、しかし、他の一方では、目先の変化に一喜一憂する、共に人間的な世界が産み出されることになる。脳死によって失われる世界が、これである。

(南と北の生物学より

三木茂夫『海・呼吸・古代形象』うすぶな書院 150頁)

 

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