Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

ツピーツピー

シジュウカラの澄んだ声が潤った大気に響き渡り

目を閉じて耳を澄ませると

雀やキジバト、カラスの聴き慣れた声に混じって

遠くの鶯の囀りも聴こえてくる。

 

視覚を休ませて広がる奥行の中に

意識の在処がスッと戻っては

彼方の音源のもとへと自在に放たれていく様な

早朝の爽やかなひと時。

 

昨夜の風雨でだいぶ散ってしまっただろうけれど

今年の桜の記憶もまた

心に深く刻まれ続ける様な気がするのは

晩年の父が春の到来をいつも以上に

心待ちにしていた記憶と重なるからかもしれない。

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そんな風に感じる度に

昨年読んだ奥山淳志さんの『庭とエスキース』という本の中の言葉を思い出す。

 

僕の目に映った弁造さんの“老い”とは、弁造さんという精神から離れていく肉体の姿だった。

かつては背中合わせの一心同体であったはずの弁造さんの精神と肉体。でも僕の目の前にいる弁造さんの肉体は、持ち主の精神から遠くに離れようとしていた。この精神と肉体の距離によって生じるギャップこそが、僕たちが日頃呼んでいる〝老い”の正体ではないか。 弁造さんの姿はそんなことを感じさせた。

 

そもそも生きることは、生きている時間を指すものでもないはずだろう。生きることのなかには、生きている時間も逝ってしまった後の時間も含まれている。

 

親たちの老いに寄り添う日々に

スッと染み込む清水の様な一冊だったが

見送った後の時間にも涼やかな余韻を響かせてくれる。

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