導きの記憶
2026/01/24
マン・ツー・マンでの指導を受けていると、基本的には他の生徒さんとの接点は無い。
ただ、私の場合は親しい友人も同じ師から学んでいたから、その時代の記憶に共有できる部分があり、友人との会話の中で師の言葉にふと再会できる事もある。
そんな時は師の声や口調、表情や仕草までがまるで昨日の事のように鮮やかに甦ってくる。
不肖の弟子だから、どれだけのことを師から学び取れたのか、きっと誤解や大きな勘違いも多々あっただろうし、その誤解や勘違いをも含んだ記憶は自分の中でその後も編集され、解釈もまた変わり続けているものなのだろうとも思う。
そして、言葉に括ることによってどこか体験から乖離してしまい、その豊穣性が色褪せてしまう様な気もして、その記憶を安易に言葉にすることへの逡巡がずっと私の中にある。
だが、先日『身体知性』の再読をしていて、最後に収録されていた著者と内田樹さんの対談に、
それでも、その年月を私の記憶として温めながら、師の言葉の奥行きを自分の中で問い続けていっても良いのかな…と
今、じんわりと沁みてくるものがあった。
内田 師弟関係の一番生産的な点は、師匠が教えていないことを弟子が学んでしまうということです。
僕が言っていることを100%理解したら最大限ということであれば、師弟関係で引き継がれる技能も知識もどんどん目減りしてゆく。でも、師弟関係というのはもっと創造的なもので、僕が言ってもいないことを、「それは勘違いだぜ」という場合も含めて・・・・・。
内田 一人ひとりがそれぞれに新しい解釈を創り出してゆく。それが師弟関係の豊饒性だと思います。
ですから、とにかく好きにやってください。誰もが、「自分の甲羅に合わせて穴を掘る」しかないんです。でも、教わったことを自分らしく解釈しているうちに、あらぬ方向に逸脱していく。教わったことの解釈である限り、どこかで自分の枠を超えてしまう。だから、解釈は自由なんです。
未だわからなさを抱えながらも、自身の中で熟成させ続けていきたいと思える何かがそこにはあり、その時大きな川を渡るような導きがあったから今の自分もあり、そこは確かに心と身体を繋ぐ場所、その時の自分の枠を超えていく経験を授けて戴いた年月だったと思う。
そして、そこを離れてなお
踊るとは、美とは、生きるとはという問いを
師はその生き様をもって投げかけて下さったように感じている。
薔薇の香りが心身を開く
風通しの良い時間
ただ、踊ることの中で
余分なものが削ぎ落とされ
抜けるべきものが抜け
導き見守るリボンで束ねられていく
心と身体の中心
動くほどに、訪れる
Energyに満ちた静けさ
春を待つ、樹木や薔薇たちのように
その鼓動に私を澄ませたひと時
私は、私の知らない私で満ちている
2011/1/22の日記より「鼓動」

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