時
2026/07/20
先月会った時はまだつかまり立ちだったのに、今月はもう余り危なげもなく歩いている孫。指差しも増えて本当にどんどん発達していく。
今この瞬間に無心に遊ぶ姿を眺めながら、先日ふとであったこんな言葉を思い出していた。
遊ぶ子どもは、すでに完全な存在として世界と関わっている。
https://explore.emerging-future.org/article/d7c2b288-89cc-4e4b-ae6d-69705d3625d2
その言葉に心底共感できるのは、一通りの子育てを卒業して孫と祖母という関係性にあるからかもしれないけれど。
でも、そのような一見なんでも無い様な日々の経験の尊さを感じるほどに、それをできる限り邪魔せず見守りたいと思う。

義母の膝のケアをしつつ話し相手をしていたり、晩年の父を思い出すとそれとは対極的な在り方を感じ、「老いる」とは今ここが希薄になっていくことなのかもしれないと思ったりもする。
話し相手といっても、殆ど「聴く」ことに終始している時が多いが、過去は編集され再構築されて、未来はそのナラティブの延長線から語られる。
ある程度気が済むまで語り尽くすと、「今ここで触れられている身体」にようやく意識が向き、それと前後する様に微睡が訪れる間際に浮かぶ表情はどこか幼な子の様にも見える。
膝が云々以上にそれが例えつかの間でも、老いの時間の中に今ここの身体に安らぐ瞬間を私は届けたいのかもしれない。
幼な子は時の流れというものを、たぶん、感じない。いつも「いま」が沸き立っている。さっきめそめそ泣いていたとおもったら、もう上機嫌で遊びに夢中になっている。見事なまでの移り気である。それにいっときにいくつものことをしたがる。ながら族の原型は幼児期にある。過去を引きずる、先のことを案じて心を煩わす、などということは、幼な子には無縁だ。
鷲田清一 『想像のレッスン』 167p ちくま文庫

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