Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

先日、アカアマコーヒーの記事を書いた日に、松岡正剛氏のこの記事を拝読した。

1747夜『うしろめたさの人類学』松村圭一郎|松岡正剛の千夜千冊

偶然にもコーヒーにもまつわるお話だったのと、やはりこの松村氏の問いかけに耳を傾けてみたいと心が動くものがあったので、この連休中の1冊となった。

松岡氏も触れていらっしゃるように、まだ読み始めて3分の1程度でも「気持ちの良い本」という感触があり、また初めてエチオピアを訪れた際の日記なども織り交ぜられているから、若々しさのような感触もあり、その感触を覚えてから改めて出版社を確認したらミシマ社だったことで、「ああ、そうだったか」と納得したような面もあった。

エチオピアと日本の国のあり方にみえるねじれ。国家の「支配」とか、「権力」というと、とかく表向きの統制の強さだけが想起される。けれど、それは内面化/身体化の度合いと深く関わっている。その制度があたりまえであればあるほど、国家が関与する密度は増す。
だから日本人が、エチオピア人よりも国家から自由であるとはいえない。戸籍にしても、他のいろんな制度にしても、日本人のほうがはるかに国家の存在を欠かすことのできない前提として生きている。そうやって国家と密着するのが「あたりまえ」になると、自由に息を吸うことがどんな感覚だったのかさえ忘れてしまう。そう、だから「スキマ」が必要なのだ。
社会のあたりまえが国に支えられ、ぼくらのあたりまえの行為が国を成り立たせる。
ぼくらの「からだ」や「こころ」は、こうして「国家」とつながっている。「社会」と「世界」のつながり方。このつながりを可視化してみる。まずは、そこを足場にしよう。

このコロナ禍のなかで、“国家と密着する「あたりまえ」”を、改めて考えてみる隙間が開いたように感じているのは私だけでなく友人知人にも少なくない。

再考にあたって、前提となってしまっていることに動きを与え、視点に揺さぶりをかけてくれる本だ。

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