
わかるということ
2021/04/21
『感覚統合の発達と支援』のなかに
視覚処理の2種類のモードについて
滑り台を滑るという遊びの中での
ざっくりと記された脳内のやりとりについてのテキストがあった。
一人の子どもが公園の滑り台のほうへ歩いていく。その子の視覚皮質には、滑り台の像が描かれている。この像の持つ意味が、脳幹処理過程と大脳処理過程の両方から送られる。階段の前の適切な位置に立って上り始めるには、脳幹で前庭覚、固有受容覚、視覚の情報を組織化しなければならない。
自分が安全に階段を上れるとその子にわかるのは前に何かに登ったことがあって、階段の視覚像をその物理的構造と自分の感覚運動能力に関連づけることができるからだ。方向感覚を失わずに一番上まで上れるのは、脳幹の働きのおかげで、自分が空間の中のどこにいるかがわかるからだ。視覚情報、固有受容情報、前庭情報の一体化によって、子どもは滑り台の一番高い所で自分の身体に座る姿勢をとらせることができる。そしてそこから滑り降り、前庭刺激を受けることで快感を得る。
A・ジーン・エアーズ 著
『子どもの隠れたつまずきを理解する 感覚統合の発達と支援』/金子書房
と、まあこんな感じであるが
意識に上らないところでも
どれだけ複雑で精妙な働きあいがあって
滑り台で遊ぶという行為が成り立っているのかと
そして、自然と幼子がそれを欲するのかということに
感動を覚える。
意識すること、考えること
それを蔑ろにするわけではないけれど
でも、行為の背景で創発され
統合されていくものを
もう少し待ってみたり
信じてみたりしても
良いのではないかな・・・
「わかろう」ということから
自由になった時
訪れる「わかった」もあるから。
考えずに行う
多くの人は、自分のしていることについて意識して考えなくても上手に行うことができる。むしろ、思考や努力をやめ、ただ脳に任せて自動的に作業をさせる。カフェのウェイトレスは、手に乗せた皿やフォークを無意識にバランスをとりながら運ぶ。ダンスの初心者はステップを考えながら踊ろうとするが、頭で理解しようとしなくなって初めて上手に踊れるようになる。裁縫職人は、気づけば手と指が「ちょうどいい具合」に動いている。やるべき作業がそこにあるというだけで、ほぼ自然に動作が始まる。この過程は「流れに任せる」とも表現される。
考えることは何をするかを決めるのにはよい方法だが、何かをする行為においてはあまり役に立たない。人の筋肉の構造と生理機能はあまりにも複雑で、事が起きるスピードがあまりにも速い。私たちの身体知覚にある情報は観念的というより感覚的なものなので、常に意識の中にあるとは限らない。よく機能している脳は、感覚入力を処理し、その入力を身体知覚と関連づけ、運動プランを作るという作業のすべてを、意識的に考えることなく行うことができる。考えることは、むしろ感覚入力と運動反応の自発的な処理を妨げることもある。しかし、この無意識の流れるようなプロセスは、十分な感覚統合を通じてでない限り生じない。多数の運動スキルがあっても、感覚処理の「流れに任せる」ことはできない人もいる。
A・ジーン・エアーズ 著
『子どもの隠れたつまずきを理解する 感覚統合の発達と支援』/金子書房
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