Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

今、読んでいる尹 雄大さんの『聞くこと、話すこと。~人が本当のことを口にするとき』の中の一節で、「あ!この感じ…。」と先日観た舞台から受け、広がった響きを思い出した。

 

それは、尹さんが映画監督の濱口竜介さんへのインタビューから気付いたこととして綴られた章。

 

 

「ハッピーアワー」を観て私が驚いたのは、演技経験に関係なく、そのキャラクターがその人としていたことだった。しかもありありと存在していた。演技について良し悪しするジャッジが意味を持たないと思った。その人の身体としてあるセリフを言い切るとき、 他人のジャッジが付け入る隙はない。スクリーンには、その人がその人として確かにそこに立っている姿が映し出されていた。

その事実が告げるのは、私という存在はあれやこれやの評価の外にあり、またあなたとは異なる存在としてここに生きているということ。互いにそのような存在なのだ。だから私そのものとして声を響かせるとき、その音には尊厳がこもっているはずだ。「私はここにいるのだ」という響きがそこにある。

尹 雄大 『聞くこと、話すこと。~人が本当のことを口にするとき』 大和書房 57頁

 

私が観た舞台には声は無かったが、私を含めその場や後に映像を観て思わず涙した方々の心身に響き広がったのはやはり、尊厳と尊厳の共鳴だったのではないかと。

 

  

私たちは普段、無意識のうちにも他者の目を通した姿を自分と捉えている面があるのではないだろうか。

 

そして、その状態で「振り」の余り無い舞台や「間」に自分を置くことは怖いけれど、赤子の様に「自分以外の何か」になろうとしていないわたしとして身体と共に居る時、予定調和ではない生身の響き合いがそこに生まれる余地が広がるものの様に思う。

 

 

そしてストーリーや役柄や決まった振りがあったとしても、その源に他者視点を通さないそこに在る身体の奥行きからの響きが感じられ、それに共鳴する自らの響きを奥行きに感じるとき、私はそれを美しいとも思い、真に感動してもいるのだろう。

 

ナチュラリゼーションにしても、赤ちゃんの動きを真似ているだけなら、それは真似事の域を超えることはできないけれど、取り組むうちにふと世界が反転したような居心地で心身に出会える時があり、そんな時に自ずと生じてくる動きとの出会いがあったりするし、そのありようがなんらかの施術を行う際の起点でもあるような気がする。

 

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