Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

「先生は、前からよく”生き抜いていくために”って書いてて、そのときは大袈裟だなあって思ったけど、今はそう思わない。」
高校生の生徒さんは、そうも言っていた。

確かに2018年初頭のブログにもこんなことを書いている。
若者はよく覚えているものだ(笑)


「どれだけ自分自身を信じられるか」
それは、やはり身体を通じて得たものによってしか生まれないものなのだと思うんですね。
私自身は、野性的な暮らしをしている訳では無いけれど、でも、その後の人生を左右するような岐路に立ったとき、発動するのはやはりそうした野生的なものであったし、気付いたらそれに従っていた様な、何かもうそれに抗うという選択肢が消滅するような(笑)
 
戦後に生まれ、成長していく経済の中で生きてくると、こうすればこうなる、なっていけるだろう的な「予想できる未来図」を思い描いて、より確かなものを選び取ろうとしてしまいがちだけれど、むしろそれは幻想で、これからの時代は予想が利かない、不確かさの中でどう生きていくか、生き抜いていくかという意味での野生力がやはり必要になってくるのではないかと感じています。

2018年1月4日の旧ブログの記事から

それは6年過ごした仕事のスペースを手放す直前のことだ。
愛着のある場で、手放さずに進むこともできない訳ではなかったが、何か無性に身軽にならなければいけないというような衝動があった。

もちろん、今のような事態を予見していた訳ではないし、だからこそギリギリまで執着しようとする思考との葛藤があったのだが、結果的には「なんだかわからないけれどそうしなければいけない」というザワザワするような第六感的なものに従った。

今にして思えば、ああ、こういうことだったかとその時の選択に繋がった強い衝動を振り返ってもいるが、それが言わば「レンマ的」なものの気配を身体で感じて委ねたということなのかもしれない。

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