Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

このところの様々な事象から、未知なるものやことへの態度というものが浮き彫りになっていると感じながら、以前読んだ福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』という本の中の言葉を思い出す。

それを経験する前に、あるいは経験しているかもしれないことに気付かないままに、「わからなさ」の意味や因果を見出そうとする。自前の思考のカードで分かりやすい、あるいはそう信じたいというフィルターのもとで何か一つの答えを与えようとする。そこから解明されていくことや発展していくこともあれば、恐れや猜疑心も生まれもする。

そうした人間の認識の傾向に自省的でありつつ、解像と鳥瞰の繰り返しが世界に対することだという一節。

かつて私たちが身につけた知覚と認識の水路はしっかりと私たちの内部に残っている。
しかしこのような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。
私たちは見ようと思うものしか見ることができない。そして見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。
世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない。
パワーズ・オブ・テンの彼方で、ミクロな解像度を保つことは意味がない。パワーズ・オブ・テン の此岸で、マクロな鳥瞰を行うことも不可能である。つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。なぜなら、おそらくあてどなき解像と鳥瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。

この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。
そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからな いのである。

『世界は分けてもわからない』福岡伸一 講談社現代新書

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難しいことはさておき、今対峙している「わからなさ」の中で起きている、行動の制限や仕事のキャンセルといった事象の一方では、それまでより少し緩やかになった時間の流れの中で様々なジャンルの本を読む時間が増えたり、実家の庭の草刈りや植木の手入れで植物や土に黙々と触れ合う時間が増えたり、オオイヌノフグリの全盛期の後にはクローバーがぐんと成長し始める姿に触れたり、やってくる野鳥の世界でもヒヨドリが金木犀の木に巣を作っている間はいつもやってくるキジバトたちが雛を守ろうとするヒヨドリに追い払われる姿を目にしたかと思えば、巣立ちを迎えた後はその小さな庭の中でも共存しあうようになる姿を目にしたりと、身近な自然界を観察するような時間も、両親と過ごす時間も与えられているように、経験をどの角度で切り取るかによってその意味は変わる。

だから不都合なことばかりに目を向けずに、今だから経験できていることも味わいながらこの時期を過ごしたいと思う。

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