
in fragments 11/6
2020/11/06
指月
先日の満月を見上げながら
仙厓の「指月布袋画賛」の図を思い出した。
その喜びに満ちた朗らかな表情と
柔らかでシンプルなラインによって
学びの道の難しさも
肩肘張らずに包み込むような
私の好きな禅画だ。
西平直 氏の『稽古の思想』という本の序文に
”稽古の言葉はしばしば「反転」する仕掛けを秘めている”
といったくだりがあるが
学びの道の構造にも
どこか周期的な「反転する仕掛け」が
秘められているように思う。
踊ること、動くこと
つまり身体を問うた先で出会った学びが
むしろそれ以上に
意識やBeingを問う道の始まりで
そこからその問いを底流に
動きの原点をたどり直す道が続き
今度はまた
Beingをその原点から問い直す道へと接続していく。
対象の側の世界がますます混沌としていく中
再読したケン・ウィルバーの本から
意識の反転を感じる
一部をメモしておこうと思う。
わたしの収縮したモードでは、わたしは、顔のこちら側にあり、外側の世界、対象の側の世界を見ている。
わたしは顔のこちら側に存在している。わたしの全人生は、自分の顔、自分の面目を立てることに費やされている。わたしの自己収縮、わたしの獲得、わたしの探究の興奮を満足させるために。わたしを外の世界と切り離す興奮のために。その世界こそ、わたしが望み、怒り、収縮し、獲得しようとしている世界であり、そこへ向かって動き、そこから逃れようとし、愛したり、憎んだりしている世界である。こうして内側と外側は絶え間のない戦いを繰り返している。すべては希望と恐怖の変奏曲であり、何とか面目を保とうとするドラマの世界である。
…中略…わたしは、もはや顔のこちら側から世界をのぞいているのではない。わたしとは、単に世界である。わたしはここにいるのではない。わたしは顔を失ったのである。そして、本来の顔、本来の面目、コスモスそれ自体を取り戻したのである。鳥が鳴いている。わたしとはそれである。太陽が昇っている。わたしとはそれである。月が輝いている。わたしとは、単純で、常に現前する意識のなかでのわたしである。
ケン・ウィルバー『存在することのシンプルな感覚』
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