Baby Steps

ゆっくりと歩む日々の眺めと言の葉

今年のはじめに実家の父が酷い腰痛になり、

循環器系の持病もある事から当初は内臓からくる痛みかと案じもしたが、その後の検査ではその点では異常は無かったものの、

痛みへの恐れと生きる意欲の低下、また痛みや高齢を印籠に甘えたい疾病利得の心理もおそらくは加わって、ひと月あまりすっかり寝たきりになってしまっていた。

 

時が経つにつれ廃用症候群まっしぐらな感じだったが、寝返りの様な無意識のうちの動きをみていると痛みは軽減してきている様だったし、老老介護の母も疲労してきているので、ある時点で廃用症候群についての説明もした上でかなり厳しめの口調で父に言った。

 

「麻痺などで動かせない状況なら私もいくらでも手伝うけれど、自分にまだ残っている機能や生きる力をみすみす捨てる様な人生の終わらせ方で良いのか、私はそんな父親の姿は見たくない」と。

四つ這い位でのロッキングやハイハイが腰痛の改善にも役立ち、当面の移動手段にもリハビリにもなるからということも改めて伝えながら。

 

寝込んでからそれまで日に2030通は届いていた、そして日毎に時系列も現実と妄想も混濁していく様なショートメールがそれからピタリと止まり、余計鬱モードになってしまったかとも思ったが、実際にはそれ以来多少痛みが出ても少しずつ身体を起こし、布団の上に座って自分で食事をとるようにもなり、春一番の吹いた頃からは自ら「ハイハイでトイレまで行ってみる」と行動し出したり、「這う時膝が痛くならないようにサポーターを買って。」などと良くなろうという意思が表れてきた。

 

何とか自力で起き上がり、布団の上に座る事は出来る様になった頃、シーツの取り替えの際など布団の上でいざる様子を見ていると、なんと親指・人差し指・中指の3点で上半身の重さを支え、体幹を器用に使いながら移動しているではないか^^;

(ナチュラリゼーションにも手指をエッフェル塔の様に立てた状態でのプランクがあったりする)

その姿に、そういえば父は大学時代バリバリのヨット部だったのだという事を思い出しもした。

 

 

トイレに行くためにハイハイをする。

便座に座るためにつかまり立ちでも立ち上がり、螺旋の動きで方向変換し、スクワットの様にゆっくりと腰を下ろす。

 

おそらくその年代の多くの人にとって、それは屈辱的な感覚も覚える事かもしれないが、必然的に繰り返されるその行為自体が良いリハビリにもなるし、何より生きよう、少しでも良くなろうとする父の姿は、私にはとてもカッコよく思えた。

 

父が娘に残したい記憶が、現役で活躍していた頃の自分なのは分かるし、実際父自身も過去をよすがにしている面もあったと思う。

でも、「私は過去に何をしてきたかではなく、今どう生き、生きようとしているかの方がずっと大事なのだと思ってる

その言葉が少しでも父の心に響いたことが嬉しい。

  

赤ちゃんの発達過程の様に、這い、つかまり立ち、座るいう一連の動きを繰り返すうちに少しずつ父の運動機能は回復し、今は4点支持の杖を使って何とか自力で歩いてトイレに行ったり、居間の食卓で食事できるようになった。

また、一時よりは認知症状も落ち着きだいぶ父らしさも戻ってきた。

 

きっかけだけとは言え、まさか自分の親にハイハイ指南をすることになるとは(^^;

でも、四つ這い位で腰の筋肉を緩め、ロッキングで上肢と下肢の協調運動、ハイハイは四肢の伸展・屈曲に体幹の回旋運動が組み合わされ、立位の保持にも必要となる姿勢反応を育み、歩くために必要な働き合いを育む大切な過程であり、それは90歳を過ぎた高齢者にも役立ち得るという事を身近なところで実感もした数ヶ月だった。

 

 

いつかは私も身体機能の衰えと共に生きなければならない日も来るかもしれないが、親に向けた言葉はそのまま私自身にも向けた言葉でもあるのだと思う。

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