
未完の先に
2024/04/06
「庭とエスキース」を読了。
他者を観、聴き、そして想い続ける。
帯にも書かれていたように、なんて誠実な持続なのだろう。
味わい深い写真と未完のその先にも思慮深く紡がれ続ける言葉たち。
まるで自分もその片隅に居たかのような体感を伴って想像できるほど
目を、耳を、肌を振動させていく何かを感じるのはきっと
弁造さんという方の持つ魅力とあわせ
著者の観る力の豊かさと、熟成に熟成を重ね過剰さが削ぎ落とされた言葉の力なのだと思う。
そして、老いていく親達を観て、聴いて、感じている中でふと思うこととも
或いは遠い日の様々な記憶といった
私自身の内にあるものとも時折結び目が生じるようでもあり。
弁造さんと著者の時間、全く関係ないはずの私と他者との時間が重なり
記憶の光が織りなす不思議な万華鏡を覗いているかのような感覚に。
そしてふと思う。
人生は未完だからこそ、その生の一端を共有した他者の中で何か受け継がれ
新たに織りなされていく余白が
より多く遺されるものなのかもしれないと。
心揺さぶられ、また読み返すためにと付箋をつけたら、久しぶりに大変なことになってしまった。
こんなふうに付箋だらけになったのは、長田弘さんの「感受性の領分」以来だろうか。
この本は多分、これから幾度も読み返す一冊になりそう。
そして、著者の眼差しを通した別の「生きること」にも触れたくなり、もう一冊を取り寄せた春の日。
目前にある春の眺めも、
そこに重なる記憶の中の春の眺めも
かけがえの無い愛おしさに満たされている。
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